ある学習塾のオーナーの執筆分です。
子供相手の文面ですが、部下や後輩に対する考え方でも同様に思われます。
非常に参考になる文面ですので、一部を抜粋、編集の上、記述します。
【以下、抜粋編集文】
現代の日本の子供たちは、幼児期に否定され続けて育ち、満足することを知らないため、本来自らやらなければならないことも、やらされているという感覚でしか受け止められない消極人間になってしまっています。
何にも興味を持てない人間は、幼児期にインタレストなものを発見しなかった人間です。
やらされると言う感覚にはまっている子供、つまり受動的な子供は、言われたことに対して、素直に受け入れる気持ちが無いのです。
何を言っても「出来ない!」とか「覚えられない!」とか言い訳を言い続けます。
一方、幼児期にインタレストな事を知った子供は、どんなことにでも、能動的になる可能性があります。
例えば歴史に興味を持った子供は、他の教科にも興味を持つことが出来ます。
その子供に興味を他にひかせることが出来ないのは、教える側が、その教科をインタレストに感じていないか、その子供に集中していないからなのです。
目の前にいる人間が、返事を返してくれていても、こちらの話に集中していなかった事に気付いて、唖然とすることは、どんな人にも、よくあることだと思います。
「先生たちが、生徒の気が散っているのか、別のところに集中しているのか気付くことが出来ないのは、先生の側が、生徒に集中出来ていないのです。」と教られたことがあります。
私たちは、常に子供たちの幼稚で未熟な言動に振り回されてばかりで、彼らの根源に気付かなかったのです。
子供たちの中には、今やらなければならない事には、集中出来ていなくても、別の事に集中している場合があります。
例えば、読み残した漫画の続きを考えていたり、好きなバスケットボールの事を考えていたりします。
つまりこれは、気が散っているのではなく、別の事に集中しているのです。
かつては、子供たちが話を聞かないのは、集中することが出来ないのだと思っていました。
根源は集中することですから、何に対しても集中出来れば良いわけです。
私たちは、今教えている教科を勉強しなければ、気が散っている、つまり悪のように感じていたのです。
集中を知っている子供は、何に対しても能動的に変化できる可能性を持っています。
その可能性は目の前にいる人間と意識を共有することで広がります。
勉強させようとするのではなく、私たち指導する側が、子供たちに集中し、彼らが集中している事を共有する必要があるのです。
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